4月29日(水)父の葬式

  今朝10:11みどりさんから、「(徳見の兄・昌利さんが)4~5日しかもたない」と電話があった。12時間後の22:13には「亡くなった」と電話。私と同じ歳だった。すでに「覚悟」ができていたからか、改めて感慨はないが、こうして、私も死ぬのだろうなぁと思う。

 つきあいが悪いせいで、はじめて人の死と直面したのは、1981年、私が39歳の年、父が死んだときだった。その時父は81歳、悪性リンパ腫で、築地のガンセンターで死んだ。臨終というので、家族が呼ばれ(誰が来ていたのか、記憶にない)、ベッドに横たわっている父の上に、医者が馬乗りになって、激しい勢いで心臓マッサージをした。ボキボキと肋骨の折れる音がして、心の中で「やめてくれ!」と叫んだが、声には出せなかった。

 夜、死んだ父のベッドわきに、私と母が残り、母がひっそりと涙を流すのを見た。医者が「医学の進歩のために、解剖させてほしい」と言い、そのころは、素直に、科学の発展やら、医学の進歩を「善」と信じていた私は、即座に了承した。母は何も言わなかった。

 翌朝、私は一人で病院へ父を引き取りに行った。葬儀屋も来て、「旅支度、旅支度……」などと言いながら、白衣を着せて、手甲脚絆、頭に三角巾をつけたりするのを、「ばかばかしい儀式だなぁ」などと思いながら黙ってみていた。解剖で何をされたのか分からないが、父の端正な顔は、口がひん曲がって、見るに堪えなかった。このとき「解剖させるのじゃなかったなぁ……」という思いが沸き上がった。

 明治生まれの父は、墓も、葬儀屋も、自分ですべて準備してあった。通夜には、自宅に大きな祭壇が作られ、坊主が読経し、門の前には巨大な看板……「嶋田重勝葬儀式場」などと書かれている。私は何とも気恥ずかしくて、その看板をそっと横にしてしまった。また、スピーカーが大きな音で、父と母の出会いやら、人生の一端を流していて、これもまた、「やめてくれ!」と叫びたい思いをじっと耐えていた。狭い庭に「焼香台」が作られ、隣近所の人たちが、門の外まで並んでいるのを見るのも、なぜかいやでたまらなかった。

これが「明治時代の常識」だったのだろうか。この常識は、今でも続いているらしいが……。

 どういうわけか、わたしは、「儀式」というものが嫌いだった。葬式に限らず、結婚式もそうだ。入学式、卒業式……いろんな儀式に参加させられるたびに、心の中で「なんてバカバカしい……」と、いつも思っていた。偏屈だぁ、とわれながら思う。

 その後、いろんな人の葬式に出席したが、どれも似たようなものだった。

自らを何も語らず逝った父 81年ひたすらに生き

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