5月6日(水)昌利葬儀/俊道死亡
徳見の兄・須田昌利葬儀のため、8:00タクシーを呼ぶつもりで食事していると、ハナから電話。「ハヤトが休みで、これからマコトの車で迎えに行く」とのこと。ハヤトは、この春大学を卒業して、「念願の」日産(自動車)に就職したばかり。8:30に到着した車には、アオイも乗っている。アオイは、歯科衛生士の国家試験にも合格し、仕事と人生を楽しんでいるみたいだ。
10:00ころ逗子の斎場に着くと、すでに、参加予定者の8人は席に座っている。10:30、須田家の菩提寺・目黒の大聖院の坊さんが、1時間ほど読経し、型通りの「出棺」となる。
火葬場では、「定員10人」しか予約してないので……、というわけで、ハヤト・アオイ、そして私は、弁当をもらって、アオイの言う「海岸を見に」行く。車で数分も走ると、「逗子アリーナ」という広い駐車場があり、なにやら、イベント会場らしいものもある。
行ってみると、露店が数軒とテーブルがたくさん並んでいる。いわば、フードコートだ。さっそく、アオイとハヤトは、イクラ丼と何とかいうタイ料理とたこ焼きを購入し、空の上のトンビを気にしつつ、いただいた日影茶屋のお弁当を食う。二人は、どれもうまい、うまいと言って、満足げだ。しかし、私は、やはり食欲があまりなくて、どれも大してうまくない。少しずつつまんで、持参の「栄養ドリンク」を飲んで終わりだ。それでも、こうして若い二人とのんびり過ごす時間は、楽しいものだ。「ミニ展望台」で、海を眺めながら写真を撮ったりして、ひととき若い気分を味わう。
葬儀場に戻ると、ちょうど「骨上げ」が始まるところ。こうして、私の嫌いな「儀式」にほとんど参加しなくてすんだ。
帰宅すると、泉警察署から留守電。「電話ほしい」と。すぐにピンとくる。弟の俊道が死んだらしい。電話すると、案の定「今朝、宅配が届けに行くと、死んでいた」とのこと。
俊道は、私の1つ下で、3日前の5月3日に書いた重孝は、そのさらに1つ下である。年子の兄弟3人、子どものころは、よくつるんで遊んだものだ。しかし、俊道は、ちょっと「こすい」ところがあって、何となく人に好かれないところがあった。母は、私を「ヒロちゃん」、重孝を「ノリちゃん」とよんだが、俊道は「トシミチ」と呼び捨てにしていたのも、そんな表れだったのだろうか?
高校を卒業して、どこやらの「大会社(トヨタ?)」に就職したが、長続きせず、悪い仲間に入って、「恐喝」で警察に逮捕された。私が大学のころだった。刑事裁判になり、国選弁護人の弁護士は、私を証人に立てて、俊道がいかにかわいそうな境遇に育ったかを証言させて、情状酌量を求めた。私がどんな証言をしたのか、ほとんど覚えていないが、弁護士の言うとおり、母にも疎まれ、兄弟からも疎遠にされて、ひねて育った……みたいなことを言ったような気がする。
2~3年の実刑判決で、長野の刑務所で服役した。私が大学を卒業した翌年ぐらいに、出所したが、重孝と二人、旅行気分で中野市の刑務所まで迎えに行った。
以後、彼は、悪いことはしなかったが、定職にはつかず(つけず!?)、いつも金に困って、母を心配させていた。
私の父は、昔からの損害保険の代理店をやって、5人の子どもを育てた。明治の生まれで、「高等小学校」しか出ておらず、しかも、秋田の田舎から単身東京に出てきて、今から思えば、「あの時代」に、保健の契約を取るのは大変なことだっただろうと思うが、そんな話は、一度も聞いたことはなかった。それはともかく、一番上の兄は大学へ、一番下の妹は女だから別格で、中の私たち3人は、「手に技術をつけさせて……」と思ったかどうか、そろばんを習わせ、私と俊道は商業高校、重孝は工業高校へ進学させた。そのうちの一人ぐらい、保険代理店を継がせたかったのかもしれない。
私が大学卒業後、出版社に勤め、2~3年後に辞めて、知人が出版社をやりたいというので、会社を立ち上げて、本を2冊作ってつぶし……、ちょうどそのころには、父も大分歳をとって、私に保険代理店の仕事をやってくれないか、といってきた。私も、とくにやることも見つからなかったので、とりあえずやってみようか、と父の仕事の手伝いぐらいのつもりで、つまりは「腰掛仕事」程度の気持ちで始めたのだった。そうこうするうちに、父が亡くなり、私は、保険代理店を自分の本業にする気持ちにはどうしてもなれず、俊道にあとをつがせて、私は、横浜の外れで学習塾を開いたのだった。
すでに、けっこうな保険契約を持っていた父の代理店なので、その契約を継続するだけでも相当な収入は保証されていた。俊道は、結婚もし、順調に生活ができるはずだったが、そのような「順当な人生」が身に合わないのか、私にはよく分からないが、保険料の「使い込み(集金した保険料を会社に収めない)」をし、そのつど、私が会社に呼ばれた。3度めには、ついに会社から「解雇」になり、父が長年蓄積してきた契約は、他の代理店に200万円ほどで売って終わった。この200万は、母の手に渡ったが、結局母から俊道に流れたのではないかと思う。
こうして、俊道は妻にも逃げられ、元の木阿弥の生活にもどった。そして、歳をとって働けなくなると、生活保護をとって、県営住宅で細々と暮らし、今日に至った。俊道が生活保護をとったとき、母は、「これでやっとトシミチのお金の心配がなくなった」と喜んでいた。
ちなみに、俊道が「解雇」された2~3年後に、重孝が保険の代理店をやりたいといいだした。保険会社(他の代理店?)では、父の契約を取り返されるのを恐れたのか、「そういうことはしない」というような念書を入れて、重孝が代理店を始めた。彼も、いろんな仕事を転々として、やっと父と同じ仕事に就くことになり、しかも、それが彼には合っていたらしく、順調に行っていたと思っていたが、前に書いたように、ストレスで総入れ歯になるほどの大変な努力をしていたのだなぁと、あらためて思う。
俊道の遺体は、今、警察にある。「引き取ってくれますか」という。今、私や久江などには、とても俊道の葬式を出すだけの余力はない。それよりも、なによりも、俊道はもう、何年もつきあいのない、すでに「いないも同然」の人間なのだ。今さら、俊道の葬式など、出す気にはなれない、というのが本音なのだ。人間というのは「関係性」なんだなぁと思う。
このまま、俊道は、役所に引き取られて、火葬され、「無縁仏」として消えていくのだ。それでいいのかもしれない。兄の俊一にしても、一応、私と久江、リョウが立ち会って「火葬葬」をやったけれど、結果的には俊道と同じようなものだ。
そして、私もまた……!
安楽な人生求めたわけでなし 不器用ゆえに孤死させられる
コメント
コメントを投稿