5月8日(金)白米と玄米/林メール(カッパの会参加)
もう半年以上前になるが、私が「干しリンゴ」を作ると、徳見の大好物となって、毎朝食べている。そろそろ残り少なくなってきたので、近くの「あざみ野ガーデンズ」のスーパーへ……と思ったが、徳見と二人、ゆっくりと朝食をし、後片付けやら、薬を飲んだり、ゴミ出しをしたり、あるいは書類を書いたり(これについては、いずれ書くことがあると思う)、何やかや「名前のない家事」をしているうちに、10:30を過ぎてしまった。
12:30には、ヘルパーが来るので、それまでに昼食をすませて、片づけを終えなくてはいけないので、「散歩がてら」と思っていたが、今日も自転車で行くことになってしまった。
「ガーデンズ」のスーパーで、揚げ物やソーメン、リンゴ・ミカンなど買って、帰る途中にあるシャトレーゼで、お菓子類を購入。私は、昔から甘いものはほとんど食べなかったのだが、ガンのために食欲不振になって、甘いものならば何とか食べられるので、カロリー補給の意味もあって、なるべく食べるようにしているのである。
1時間ほどで戻ると、そろそろ昼食の準備の時間だ。もっとも、「準備」といっても、何もすることはない。ただ冷凍庫から「残り物」を出して並べるだけだが、今日は、ソーメン(乾麺)を買ったので、それをゆでる。
鍋に湯を沸かし、沸騰するころ、乾麺を入れ、よくかき混ぜる。混ぜ方が足りないと、麺が固まってしまう。かき混ぜているうちに再沸騰するので、ふたをしてガスの火を消す。そして、そのまま2分、黙って待っている。もちろん、黙って立っているわけではない。2分タイマーをかけて、食器を並べたりする。
2分経って、タイマーが鳴ったら、おもむろにふたをとって、念のため、ゆであがったソーメンを1本すくって口に入れ、ゆでぐあいをみる。あとは、水ですすぐだけだ。
徳見は、昔から「おかず食い」で、「白ごはん」をあまり食べない。もっとも、それは、私の炊くごはんがあまりおいしくないためもあるらしい。まず、スーパーの安い米のせいだ。そのため、炊くときに、「安い米3カップ」に、「もち米1カップ」を混ぜて(これなら、高い米のほうがかえって安くつくはずだ!)、5合炊きの土鍋に入れて、15分ほど浸し、中火でゆっくりと過熱する。水加減は、小指のつま先と第一関節の中間よりちょっと上ぐらいだ。沸騰が終わって、湯気が収まって、かすかに焦げ臭がしてきたらガスの火止めて、あとはしばらくそのままおいておく。
もちろん、徳見一人で(私は玄米食なので)4合の白米はすぐには食べきれない。100グラム程度にラップに包んで冷凍しておき、必要に応じで解凍して、電子レンジで温めて、食べることになる。この「電子レンジごはん」も、徳見の好みにあわないようだ。
――というわけで、ついソーメンに頼ってしまうのであった。
ついでに、私の玄米の炊き方を書いておきたい。まず、玄米は、「ぬか」部分に農薬などが付着している恐れがあるので、私は「完全無農薬玄米」を購入している。また、発芽前の玄米には、人体に有害な物質があるというので、発芽玄米にすれば一番いいらしいが(ネット情報だが……)、なかなかそこまで水に浸していられない。とくに冬場は……。そこで、カップ4はいの玄米を水に浸して、少し泡が出始めるころで妥協する。冬場は1週間以上、夏場なら2~3日ぐらいか。
こうして、つけ汁が濁る程度になったら、つけ汁ごと、5合炊きの土鍋に移す(私はここで、ゆでた小豆を加えるが、これは好みで……)。水加減は、小指の第二関節の少し上ぐらいで(ほとんど小指のつけ根近くだ)、中火ないし弱火でゆっくりと過熱する。20分もすると、沸騰して湯気が上がってくるので、そこでガスの火を止めて、そのまま冷めるまで放置する(決してふたを開けてはいけない!)。それで完成である。こうして炊いた玄米は、ほとんど白米と同様の感触である。味のほうは、玄米特有の香り・味があり、これをうまいと思うかまずいと思うかは、もちろん好みの問題である。
4月26日に、林メール(下記)に、今日返信あり、5.13カッパの会に参加するという。
メールありがとう。
國澤さんとは、近いうちに会うことになっているので、必然的に私の病気のことは分かるので、とくに説明していません。國澤さんの言う「集まり」というのは、「ガンと闘っている知人」「古文書の研究などをやっている人」などというと、どんなイメージになるのでしょうか。
この「集まり」を、私は「カッパの会」と名付けていますが、その説明をしても、あなたには何の関係もないし、時間のムダというものですが、しかし、前便でも書いたように、「何をしていいのか分からない」時間つぶしで、私自身のために、勝手に書いてみようと思いますので、適当に読み捨ててください。
私が、横浜の北のはずれで、「学習塾」を始めたのは、1975年ごろでした。大学は出たものの、今で言えば「フリーター」とか「ニート」などと言われるような日々を過ごす中で、いつの間にか30歳を越えてしまい、なんとか「地に足の着いた」ことをしたいという思いの中で、到達したのでした。東京生まれの東京育ちの私が、はじめて横浜に住み、ほとんどゼロから塾を始めたのでした。
まずは、次の文章を読んでいただきたい。
カッパさんのこと
周東さんというより、私にとっては「カッパさん」と言った方がなじみがいい。
1976年春、私は横浜の北のはずれで、「緑学園」という学習塾を開設した。その夏休みから、カッパさんが講師として来ることになった。彼を見た瞬間、一人の女子中学生が、「あっ、カッパ!」と叫び、それ以来、塾での呼び名はカッパになってしまった。ちなみに、私はヒマダ(「ヒ」にアクセントをつけて!)と呼ばれていて、今でも「ヒマダ!」と呼ばれると(もちろん呼んでくれる「子どもたち」は、もうみんなオトナだが)、あの時代の雰囲気が瞬時によみがえってくるのである。
カッパさんが塾にいた年数は、今改めて計算してみると、わずか(!)5年ほどであった。彼が結婚して子どもが産まれると、それまでの給料では生活できなくなったのが、その理由だった(と思う)。
彼より10歳ほど年上だったが、私も「お一人様」で、「生活」のことなど全く考えもせずに、子どもたちとの「格闘」に、彼と共にすべての時間を費やしていたのだったし、それが私の「生活」だったのである。だから、彼が家族を養わなければならない(しかも、「障害児」をかかえて!)という事情などは、その当時の私にとっては、関心の外だったのである。今から思えば、ほんとうに申しわけないと思う。そんな私に対して、「給料を上げてほしい……」などと、彼は言い出せなかったのだろうし、言ったとしても、それ以上出せない状況であることを知っていたのであろう。
緑学園設立当時の(学校)教育状況は、それまでの「詰め込み教育」の反省期に入り始めていたのであった。
もう、知る人も少なくなったようだが、私が高校のころ、「ソ連」が、人類初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げた(1957年)。「米ソ冷戦」の中で、アメリカにとってはもちろんのこと、日本においても、「スプートニクショック」といわれ、「ソ連に追いつけ、追い越せ」と、「科学技術振興」が叫ばれ、それ以来、学校教育においては「学力向上」が目標となっていった。その一方で「落ちこぼれ」が問題になっていったのであった。したがって、「緑学園」のような、「落ちこぼれ」を対象にした「補習塾」も、それなりに存在理由があったのである。
しかし、時代は変わり始めていた。1973年には、「石油ショック」がおこり、一方で、水俣病をはじめとして、さまざな「公害問題」が噴出して、それまでの「高度経済成長」にかげりが見えてきた。そのような社会状況の中で、緑学園開設の少し前(1972年)には、日教組(日本教職員組合)が「学校5日制」「ゆとりある教育」の提起をし、文部省でも学習指導要領の全面改正をおこない、1980年度から、学習内容、授業時数の削減、「ゆとりの時間」を設けるようになったのである(同時に、1979年の「養護学校義務化」もセットであったが!)。
こうして「ゆとり教育」が始まると、「塾業界」は急速に「進学塾化」へと変身をしはじめた。学校がやらない「受験教育」を塾に求めるという「親の期待」に応えるためである。ちなみに、今の大手の進学塾は、ほとんどこの時期に変身を遂げて「高度成長」したのであった。
かく言う緑学園は、そのような時代の波に乗ることを潔しとせず(といえばカッコいいが、実は「乗り遅れた」だけのこと……?!)、旧態依然として「落ちこぼれ塾」として存在したために、「あの塾はバカが行く塾」という定評をうけて、しだいに生徒数が減少していった。
カッパさんに子どもができて、「退職」せざるをえなくなったのは、そんな時期であった。
緑学園は、彼が辞めてからも「遊び塾」をやりたいという人たちと共に、さらに5年ほど続いたのだが、時代の波には逆らえず、結局は閉鎖することになってしまった。
思えば、共に「塾をつくってきた」5年間の日々が、彼にとって(そして私にとっても)、もっとも充実した日々ではなかっただろうか。
ところで、最近の(学校)教育状況は、また以前のように「学力向上」のかけ声のもとに、「能力主義教育」が叫ばれ出しており、「時代は繰り返す」といった感がある。
会うたびに「また緑学園のような塾をやりましょう!」と語っていたカッパさん、そのたびに「ぼくがもっと若かったらねぇ!」としか返事できなかったが、「塾」なんて「必要悪」だと思っている私にとって、「またも緑学園が必要とされるような時代になりそうで、喜ぶべきか、悲しむべきか……」などと、彼の死の2か月ほど前にも話したばかりだった。(2010.2)
2009年11月16日、カッパさんが死んだ。57歳だった。24歳で塾にきてから33年、塾での付き合いは、わずか5年ほどだった。塾をやめてからの彼は、妻と二人の「障害児」を養うために働く人生だった。年に何回か、仕事の合間に酒を飲み交わすつきあいが続いていた。仕事が多忙だったのか、大腸ガンで倒れたときには、すでに手遅れの状態で、1年足らずの闘病で死んだ。
引用した文章は、若くして逝った彼を悼んで、翌年(2010年)3月、「偲ぶ会」をやったときに作った追悼文集に載せたものである。
「偲ぶ会」の中心メンバーは私と松沢・村田という3名。その村田公男というのが、國澤さんの言う「古文書の研究をし、ガンと闘っている」人である。
私が初めて横浜に住み、塾を始めたころ、たまたま市の「広報」で、「新住民に横浜を紹介する」という企画があり、それに応募したところ、「社会教育課?」の村田さんがその「世話人」だった。まずは、当時の市長・社会党の飛鳥田一雄のあいさつの後、「室内での講習」、そして、バスで「横浜市内見物」という企画だった。参加者はほとんどじいさん・ばあさんばかり、「若い」のは、私一人とあって、歳の近い村田さんと、バスの中で、何となく話すようになった。
私が、塾を始めたこと、講師を探していることを彼に話すと、紹介してくれたのが、カッパさんこと周東範行氏だった。「周東さんは、上司の息子で、大学を出て、組みひもの会社に就職したばかりだけれど……」と言い、「しかし、彼には、そんな会社より、塾のほうが合ってると思うよ」と、紹介してくれたのだった。
村田さんが住んでいるのは、津久井郡で、今は相模原市に編入されたが、その彼が、なぜ横浜市の職員になったのかは、きいたことがない。かれは、地元の津久井の郷土史や、県内外の自由民権運動の資料など、古文書を探して、解読している。私にはあまり興味がないので、詳しく聞いたことがないのだが……。そして、役所を退職して、お連れ合いの実家の畑を耕したり、古文書の研究などをして、悠々自適の生活をしているうちに、大腸ガンを発症した。カッパさん同様、人工肛門となったが、幸いまだ生きている!
もう一人の松沢貞易さんは、カッパさんの小学校から高校までの同級生で、大学ではコンピュータのプログラミングを学び、今のコンピュータ社会の先駆けの時代に、その種の会社に就職した。しかし、趣味人で、カッパさんや村田さんと、鉄道廃線跡を訪ねたり、各地の神社やお寺を訪ねる旅行をしたりしていたらしい。
そんな二人と私の3人が、カッパさんの死後、15年も、「カッパの会」と称して、居酒屋やレストランなどで、あるいは、徳見家で、何となく飲んだりするつきあいが続いてきた。
國澤さんとは、時折レストランや徳見家で食事をしたりしていたので、2018年ごろから、「カッパの会」に合流していただいた。すると、どういうわけか、「カッパの会」をすっかり気に入ってしまって、毎回参加を楽しみにしてくれるようになった。私には、どこがそんなに楽しいのか、よく分からないのだが……。
……というような次第です。次回「カッパの会」は、5月13日、13:00橋本駅(JR改札口付近)集合です。もしよろしければどうぞ。
これについて、さらに國澤さんから夜、電話あり、「林が参加は、これまでのカッパの会の人たちが違和感を感じるのではないか」と心配しているようだ。國澤さんが参加したときのことを思えば、そんな心配は無用と思うけど……。まあ、「会」などという名前をつけるからだろうが、そもそも「カッパの会」など、私が言っているだけで、他の誰も、そんな「会意識」などないのだから……。
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